ここで1万5000人の石田三成勢を足留めしてなかったら、関ヶ原の戦いの勝敗も変わってたかもしれない歴史を動かしたお城
田辺城
(百名城・続百名城以外のお城)
熊本の水前寺公園(古今伝授の間)に続く個人の思い入れ強い場所なので、文章多めでお送りします。
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マンホールも展示
田辺城資料館のボランティアガイドお爺様が熱く語って下さったので覚書
(お話しの裏取りはしてないので、そうなのかもねくらいに)
・そもそも細川藤孝が京都育ちで今まであった山城が嫌過ぎて、田辺にお城と城下町を作った(湿地帯なのにわざわざ)
・福知山城主の明智光秀とは親戚(細川忠興の奥さんが光秀娘の玉=ガラシャ夫人)近くの城主同士で仲良し
・本能寺の変の後一緒に天下を治めようと明智光秀に誘われまくったけど断って、織田信長の急逝を悼んで出家する理由で城から出なかった
・本来の平城なら、本丸が高くなるように作るけどあまりの湿地で本丸、二の丸、三の丸も全部同じ高さで珍しい(多分全国で一つだけ)海抜1mくらいとか
・湿地帯でお城を作るのに大変な土地で、だからこそ石田勢の大群が攻めあぐねた(1万5000人対田辺城500人)攻め手が攻撃出来る場所が相当限られていた。普通城攻めで3倍以上の敵だと3日と持たないと言われてるのに52日間耐えた理由。
・さらに、攻め手側の武将も和歌のお弟子さんが多くて本気で城攻めをしなかったのかも。
・藤孝が京育ちなので城下町割も京都っぽい、今もそのままの町割りが残ってる
・今の公園は本丸のみ(残りは廃藩置県の時に民間に払下げられて民家になってる)
・でも公園に残ってる石垣は細川時代の古い物
・小学校の門は江戸時代の藩校時代の古い物
・ファミマの後ろくらいに過去には川が流れてて、お堀の代わり
・とはいえ、細川時代20年なので地元のお殿様といえば牧野氏。お隣の藩はしょっちゅう城主が変わってガチャガチャ揉めて大変だったのに、うちの藩は牧野さんがちゃんと治めてくれてて助かった
・ので、田辺城資料館の展示物も牧野氏の物ばっかりで細川時代のは後世の物ばっかり
つらつらと感想
地元の方の「うちのお殿様」語ってもらうの大好きなので面白かったです。田辺城といえば細川幽斎ってイメージでしたが実質20年しかいなかったらそうかもね。反面、熊本の加藤清正推しは根強い感じがしてるので、期間の問題でも無さそう。地元の人から見る『うちのお殿様』心理の研究、誰かまとめて欲しいなと結構前から思ってます。
ちなみにうちの地元、富山藩と加賀藩に別れててうちのお殿様って特に誰って明確に無いので熱く語ってくれる地域を羨ましいとこもあったり。前田利常公がうちのお殿様になるかなぁ。でも富山市より南の人は前田利常公??ってなっちゃう。
展示物の中に松がありましたが、水前寺公園の古今伝授の間にも古今伝授の松が置いてあったんだけど元は同じ松なのかな?
短大時代に細川幽斎の古今伝授の話しを聞いてからずっと行ってみたいな〜と思ってたので感無量。想像してたより真っ平らな平城で本丸もそんなに広くなくて、ここで52日間耐えたのは凄い。去年は熊本で古今伝授の間も見られたし、今年田辺城に来れて良かったです。
とはいえ交通上の要所って感じでも無く、大軍勢な訳でもなく(500人)放っておいても援軍が来る訳じゃ無いし、前に聞いてきた「石田勢もここを無視しても良かった。細川幽斎が援軍を出せる訳じゃないし、大局的な見方を出来る総大将がいなかった事も西軍敗因の理由の一つ」という平山優先生の話も脳内で繋がりました。
太平洋側の姫路城(晴天暖かい)田辺城(微妙に晴れてる、ちょっと肌寒い)からの帰り道、霙で高速道路タイヤ確認渋滞になってたり西高東低冬型気圧を体感しました。
日本って、広いよね。